大人ではないけど、子どもとは思われたくない時期は背伸びしがちだった
2011年から2014年までほぼ毎日、一言日記のようなものを書いていました。
ほんとうに一言だけの日もあれば、数行書いている日もあって、ただ「なんとなく」を吐き出す場として続けていたんです。何のために?という理由もなく、でもその時々のことを書いておくことには、きっと意味があるだろうな。と、いうくらいの気持ちで続けていた習慣でした。
途中、ガラケーからスマホに変わり、使うアプリの変更もあったので残っていない部分もあるんだけど、だいたいはevernoteになんとか移しておいたんですよ。
それらを読み返してみると割と面白くって、今のぼくから見ても、「こんなこと考えてたんだ。すごいな」と思えるくらい、ハッとするようなことも時々書いていたり。
それでここ最近、過去の一言日記にコメントを付け加えたものや、その他の考え・他愛のないことなどをnoteに書いてます。このブログでは、そこで書いたものをもう少し深堀りして、まとめていこうと思います。
これは本当に最初の最初に書き残していた一言日記。
2011/01/30
見えとるはずのもんが見えやんってのはすごく悲しくて、すごく星が綺麗やったりするとちょっとばかり感動を覚えたりする訳で、少しは大人になったのかななんて思ったり。
お分かりいただけただろうか。
カッコつけてます。
ほのかに香る文学臭がまた恥ずかしい。
スンッとしたすまし顔で、「ちょっとええこと書いてやったぜ!」と言っている声が聞こえてくるかのよう。たぶんこれに味をしめて、毎日なにかを書き残すようになったのかもしれないんだけど、
安心しろ!誰に見せるでもないところで カッコつけとるお前は まだまだお子ちゃまやぞ!!
と言ってやりたい。
この時のぼくはまだ19歳でした。
誕生日が2月なので、本当にはたち目前で、ぎりぎりティーンエイジャーでした。大人にはなり切れず、かといって子どもにも見られたくない葛藤は、もれなくぼくにもあったようです。
気になったのは最初の「見えとるはずのもんが見えやんってのはすごく悲しくて」という部分。どういう意図で書いたのかは覚えていないんだけど、面白いなと思った。
雲の合間に見え隠れする星のことを言ったのか、それとも昼間もそこにあるはずなのに見えない星のことを言ったのか。そこに確かにあるのに、見えない・存在を認識できないのは、悲しい。でもそういった類のものごとってたくさんあるようにも思います。
視野の狭さをを嘆いているようにもとれる。
全体を見ようとするあまりに見落としてしまう部分があったり、逆に部分的にだけものごとを見てしまい 全体を把握できなかったり。
たまに「あれ、なんでその程度のことに気づかなかったんだろう?」と、自分でも不思議に思う見落としをすることがある。
俯瞰できていて、かつ細部までしっかりと見れるのが理想ですけど、むずかしい。
見て簡単に分かった気にならずに、丁寧に考えることを習慣づけていきたいなと思う。
今日もありがとう、またね。